“文学少女”と名前のない著者

Book Girl and the Nameless Author

この世界の中で、この世界を超えて――伴名練とSF的想像力の帰趨

 

※この記事はネタバレを含みます。

 幼い子供が小学校の図書室で出会った本の群れ。宇宙を旅し、時間さえも飛び越える人々の不思議な物語。それらを貪り読みながら、子供は登場人物たちとともに日常では決して味わうことのできない数々の冒険を経験する。けれども、夢のような冒険の時間には必ず終わりが来る。読書の余韻を感じながら本を閉じ、周囲を見渡せば、見えるのは夕闇に呑まれつつある図書室の風景。もう家に帰らなきゃ。晩ご飯を食べて宿題をやらなきゃ。本の中の冒険と比べて、現実の生活はなんて退屈で味気ないことだろう。本の中でなら自分はどんな人間にでもなれて、どんな世界にでも行けるのに。でも、自分の真の居場所は他ならぬこの現実の中にしかない。その事実を受け入れられずに、子供はかつて読んだ本を真似て自分で物語を書き始める。書くことを通して、退屈で味気ない自分の人生を夢のような冒険へと作り変えようとする。だが、そんな涙ぐましい創作の努力も、幸福な読書の時間と同じようにやがて終わるだろう。受験や就職といった現実の諸事に忙殺されて、子供はやがて物語から少しずつ遠ざかっていくだろう。かつて自分が本の中で旅した、この世界とは別の世界の記憶を、熱い疼きのように胸の内に抱えながら。
 伴名練「ひかりより速く、ゆるやかに」を読み終えて僕の頭の中に真っ先に思い浮かんだのは、そんな子供の姿だった。それは作品の向こうに蜃気楼のように揺らめく作者の姿だったのだろうか。それとも、僕が図らずも作品に投影してしまった、自分勝手な「物語」の一種だったのだろうか。

「物語」を映し出す窓

 本作で「低速化」と呼ばれている、特定の人間や特定の場所だけ時間の進みが遅くなるという現象は、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「故郷へ歩いた男」広瀬正「化石の街」中井紀夫「暴走バス」梶尾真治「美亜へ贈る真珠」小林泰三「海を見る人」古橋秀之「むかし、爆弾がおちてきて」大西科学「ふるさとは時遠く」などをはじめとする多くの作品で描かれている(さらに言えば、浦島太郎のような昔話にも見られる)古典的なSFアイデアの一つだ。これらの作品が収録されている短編集『故郷から10000光年』『恐怖の館』『山手線のあやとり娘』『地球はプレイン・ヨーグルト』『海を見る人』ある日、爆弾がおちてきて』、『拡張幻想』は、主人公・速希の叔父の愛読書として作中に登場しており、作者自身が先行作品を踏まえていることを明示していると言える(227頁)。 

 こうした「低速もの」の先行作品と比較すると、低速化するのが多数の人間を乗せた乗り物であり、その乗り物を外側から眺める乗客の関係者たちの行動がストーリーの軸となっているという点では、本作のシチュエーションは「暴走バス」に近い。また、低速化が「災害」の一種とみなされ、低速化した乗り物がやがて事件を記憶するモニュメントとして扱われるようになるというシチュエーションは、戦争中に投下された時空潮汐爆弾の影響で低速化した時間の中に閉じ込められた少女が、戦後、平和公園のモニュメントとして扱われるようになる「むかし、爆弾がおちてきて」のシチュエーションを想起させる(こうした点に絡めて「3. 11以後」のような単語を持ち出したくなる読者がいるかもしれないが、僕はさしあたりそのような読みに関心はない)。 

 ここで触れた以外にもおそらくはさまざまな先行作品の要素を取り入れたシチュエーションから伴名が紡ぎ出すストーリーは、しかし先行作品にはない独自のアクチュアリティと寓意をそなえている。本作のストーリーの焦点は、低速化という現象そのものというよりも、低速化という常軌を逸した「災害」に直面した人々が、その災害を象徴する新幹線とその乗客たちに自分たちが求める「物語」を好き勝手に投影していく様子である。速希の同級生の女子は、雑誌モデルを務めるほどの容姿をメディアでもてはやされて「聖地巡礼」の対象になり、同級生の男子が事故の直前に撮ってインスタグラムにアップロードした風景写真は「意味が分かると怖い画像」としてネット上を流通する。別の男子がライブを予約しようとしていたバンドは彼のために永久プラチナチケットを用意し、事故が終息するまでバンドを解散しないと宣言する。これらの「物語」が、乗客たちの都合や真意を無視した一方的で恣意的なフィクションにすぎないという事実は、たとえばライブを予約した男子がチケットの転売で小遣いを稼ごうとしていただけだったといった暴露によって徐々に際立たせられる。

 このようにして、凍りついた時間の中に囚われた乗客たちの姿を縁取ったのぞみ123号の窓は、「窓の外の人間」たちが求める「物語」を映し出す鏡という独特のSF的装置になる。この装置に駆り立てられるように、2019年現在、現実に行なわれたとしても全くおかしくないようなリアルな仕方で、「窓の外の人間は、窓の中の人間を、自分たちの求める物語の素材として貪り尽くして」(251頁)いく。

この世界からの脱出

 災害から五年後、のぞみ123号の窓は少しだけその性質を変える。きっかけとなったのは速希が在籍した高校のクラスをモチーフにした連続ドラマのヒットである。このドラマを皮切りに、小説投稿サイトで「集団低速災害もの」の作品が無数に発表され始める。のぞみ123号の窓が、遥かなる遠未来という名の「別の世界」に人々を導く想像的通路へと変貌する。

 二千七百年後の世界に飛ばされた少年少女たちは、無数の未来に直面した。

 核戦争で崩壊した世界の文明を、もう一度立て直した。機械に支配されたディストピアに抵抗を企てた。水棲生物が食物連鎖の頂点になった世界で虐殺から必死に生き延びた。闘争心を失っていた未来の人類を統率して国を作り戦争を起こした。性的なタブーが破壊された世界であらゆる人体損壊とインモラルな性行為を体験した。聖人的な倫理観が当たり前になった世界で奇異の目で見られ迫害された。(262頁)

 人々はのぞみ123号の窓を通して遠未来の地球を想像し、その中で人類がとりうるであろう無限の可能的な姿を幻視する。今やのぞみ123号の窓は、人々のSF的想像力の源泉になったのだ。のぞみ123号をめぐる人々の物語の上に、SF的想像力をめぐるSFファンたちの物語が重ね書きされる。ここから、熱心なSFファンとして描かれる叔父の行動が象徴的な意味をもつことになる。低速化の原理を解明するために飛行機に乗り込んだ叔父は、墜落事故によって命を落とす。低速化に関する自分の仮説を確かめることだけが目的だったならば、叔父本人が飛行機に乗り込む必要はなかったはずだろう。叔父がこのような不合理な選択をした理由を、速希は次のように推測する。

 叔父さんの本棚に並んでいた小説の群れを思い出して、僕は、もしかしたら――叔父さんは、お金以上に、未来への憧れに突き動かされていたんじゃないか、そんなことを思った。叔父さんは、新幹線の中の人たちが羨ましかったのかもしれない……遠い未来に辿り着ける人たちのことが。その想いを確かめることは、もうできないけれど。(293頁)

 仮に速希のこの推測が正しいとすれば、叔父の行動は無責任なものだ。未来への憧れに突き動かされて、唯一の肉親である速希を置いて二千七百年後の未来に旅立とうとしたのだから。だが、この叔父の行動に共感を覚える読者は多いのではないだろうか。有限な人間の生では決して到達しえない遠未来への憧れ、それは退屈で月並みな日常が営まれている「この世界」から抜け出して、「別の世界」、「ここではないどこか」へと到達したいという願望の一種である。古今東西の多くの物語が、このような願望に取り憑かれた人々をときに美しく、ときに力強く描いてきた。たとえば、「むかし、爆弾がおちてきて」の結末で、主人公が低速化した時間の中に飛び込む決意をする際に描かれるのも同じような願望である。

 ぼくの“旅”には、ぼく自身の理由がある。

 つまり――

 この近くて無限に遠い場所に、ぼくは行ってみたい。

 だが、通常の時間の流れを超えた先にある遠未来の風景が本作で実際に描かれることは決してない。「この世界」のしがらみを振り切って「別の世界」へと脱出しようとした叔父は、目的地に辿り着くことなく世界そのものから零れ落ちる。この叔父の運命は一体何を示唆しているのだろうか。それを理解するためには、本作のストーリーのもう一つの軸である「白鱗の竜」の物語について考えてみなければならない。

この世界への帰還

 のぞみ123号に起こった事故をめぐる人々のストーリーと並行して、本作ではもう一つの物語が進行している。文明が衰退した二千七百年後の世界で「白鱗の竜」と呼ばれるようになった新幹線をめぐる少年の物語である。この物語は最初、遠未来に起こる現実の出来事であるかのように提示されるのだが、ストーリーが進むにつれて、速希が創作し、小説投稿サイトにアップロードした小説であったことが明らかになる。速希もまた「窓の中の人間」を「物語の素材」として消費する「窓の外の人間」の仲間だったというわけだ。

 しかし、速希が小説を書く理由はネガティブである。彼は、漫画家として成功しつつあった幼馴染の天乃に、恋心と嫉妬心が入り混じった複雑な感情を抱いており、その気持ちと向き合うために事故を遠未来という別の視点から捉え直すことが必要だったと打ち明ける。

「〔…〕未来の登場人物視点でだったら、天乃のことに向き合えるかと思って。まともに向き合えるようになっておかないと、帰って来て欲しくない気持ちが、僕の心から消えてくれないから。だからあれを書いたのは、きっと、僕の精神安定のためで、本当の天乃の思いなんて考えてなかったんだと、今は思う」(282頁)

 

〔…〕近い未来を舞台にしたら、一行も書けなかった。遠未来を舞台にして筆が進み始めてようやく、僕は、僕自身の痕跡が少しでも残っている時代のことは書けないのだと分かった。(283頁)

 叔父とは別の理由から、しかし叔父と同じように、速希もまた二千七百年後の未来という「別の世界」をめぐる「物語」の中に囚われ、「この世界」に正面から立ち向かうことができずにいる。二人が置かれた状態は、本作ではいずれも不幸な状態として描かれている。この世界を捨てて遠未来へと旅立とうとした叔父は望みを叶えることなく命を落とした。この世界から目を逸らして遠未来へと逃避している速希は、幼馴染に対する自分の屈折した感情に苦しめられ続ける。

 そんな速希に転機をもたらすのが、天乃の腹違いの姉であり、本作のもう一人の主人公である薙原叉莉の存在である。本作の登場人物の多くが、何らかの形で二千七百年後の未来という「別の世界」をめぐる「物語」によって人生を狂わされた者として描かれているのに対して、叉莉は一切の「物語」に惑わされることなく、「この世界」を徹頭徹尾生き抜こうとする人間として描かれる。そのような人間である叉莉が速希に向けて発する次の台詞は、本作の中で最も印象的な台詞の一つだ。

「天乃はあたしが救い出す。お前はお前のでっちあげた二千七百年後の未来で永久にお人形遊びしてろ。あたしは、そんな未来、願い下げだ」(284頁)

 この糾弾は、SFファンを自認する人間をぎょっとさせるものだろう。二千七百年後の未来という「別の世界」をめぐるロマンチックなSF的空想が、自分がこの世界の只中で直面している問題から目を背けるための単なる現実逃避でしかないとき、それは幼稚で無責任な「お人形遊び」に堕する。叉莉の眼に映る速希や叔父の姿は、SF的ロマンを共有しない他者の眼から眺められたSFファンの姿だ。叉莉のまなざしを通して、SFという営みそのものが相対化され、そこに暗黙裡に含まれる無責任性が暴露される。この無責任性を最もよく示しているのは、速希の小説への「出演許可」を叉莉に求めるという叔父の行動だろう。

「お前の叔父さん、あたしになんて言ったと思う? ハヤキが書きあぐねているから、協力してくれ、だとよ。君とハヤキがくっついて何とか子孫を残して、その子孫が二千七百年後の檎穣さんと出会えばそれで一番上手い形に話が纏まるから、出演許可をくれってさ」(283頁)

 このような視点を踏まえることによって、叔父の死の意味を了解することができる。本作において、二千七百年後の未来という「別の世界」の風景は、決して「現実」のものとして描かれることはない。それは徹底して「この世界」の中に暮らす人々が抱くロマンチックな「想像」にすぎないものとして描かれる。この点において、本作で速希をはじめとする「窓の外の人間」たちが身を置く立場は、SF作品の登場人物の立場よりも、彼らが演じるドラマを憧れとともに眺める観客であるSFファンの立場に近い。このような構図の中では、二千七百年後の未来へと実際に旅立とうとした叔父の行動は、想像でしかないものを現実化しようとし、観客でありながら舞台に上ろうとする、自らの分をわきまえないロマンチストの越権行為となる。叔父の死は、このような越権行為が辿り着く結末として、作品世界の基本的な倫理を読者に暗示していると言えるだろう。

 SFが「この世界」からの純粋な脱出の企てにとどまる限り、それは無責任な「お人形遊び」にすぎない。では、この作品は、現実の生活を忘れてSFという「物語」に耽溺するSFファンの態度を単純に批判しているのだろうか。この作品は、「物語」などには目もくれず、ひたすらに現実に立ち向かい続けたリアリストの叉莉を単純に称揚しているのだろうか。

 おそらく、そうではないだろう。なぜなら、実際に低速化の謎を解いて天乃を救い出すことに成功したのは、SFファンの叔父と、その叔父のメッセージを受け継いだ速希という「物語」のうちに囚われていた人々だからだ。クライマックスにおいて、低速化の原理を解明し、天乃を救い出す決意をした速希は、自らの行動は自分自身のためのものである以上に、叉莉を祝福するためのものだと語る。

 僕は、天乃と再会して、同じ時間を過ごしたかった。

 僕は、薙原ともう一度、会って話をしたかった。

 けれど、それ以上に、思ったんだ――僕は、天乃と薙原を、再会させてあげたいんだと。

 修学旅行からも天乃からも逃げ回って、墓石が立つのを指をくわえて見ながら、空想の二千七百年後にまで逃げ込んだ僕なんかよりも。

 バットを振り回し、ショベルカーを操り、デコイの計画を呼びかけて、天乃を取り戻そうとした薙原こそが。

 天乃と再会すべきだ、再会しなければならない、そう願ったからだ。(296頁)

  こうした独白から、速希のうちで叉莉という人間が果たしている役割を推測することは容易である。自分自身のうちには見出すことのできなかった現実に立ち向かう勇気を叉莉という他者の存在から汲み取ることで、速希ははじめて行動することができた。叉莉の存在が速希を「この世界」へと向き直らせたわけである。しかし、それと同時に見過ごしてはならないのが、速希が実行した低速化の解決法はそもそもは叔父が発見したものだったという点である。結局のところ、叉莉は低速化を解決することはできなかった。低速化を実際に解決したのは、叉莉の意志と叔父のアイデアの両方を携えた速希だった。単純なリアリストも単純なロマンチストも世界を変革する力をもたない。「この世界」と向き合う勇気と「別の世界」を夢見る想像力という、相反する二つの態度を統合することに成功した人間だけが、世界を変革する真のチャンスを手にする。叉莉と叔父という対照的な二人の人間の助けを借りて、速希はまさしくそのようなチャンスを手にしたのだ。

 したがって、本作のストーリー全体を、「別の世界」への想像上の逃避行を経て「この世界」へと帰還する、速希の実存の冒険としてまとめることができる。「物語」に熱中すること、それは常に「この世界」を抜け出して「別の世界」への逃亡を企てることである。この企てが単なる現実逃避でしかないとき、それは人を不幸にする。だが、この企てが「この世界」を生き抜こうとする意志と一つになるとき、それは世界を変革する稀有な力を人間に与える。僕には、本作の結末は暗黙裡にこのようなメッセージを発しているように思えてならない。

この生を愛せよ、別の生を夢見ながら

 『なめらかな世界と、その敵』はバリエーション豊かな短編集だが、いくつかの作品には作者の根本的な倫理的態度のようなものが共通して現れているように見える。それは一言でいえば、SF的想像力が僕たちに見せる無数の「別の生」の可能性に翻弄されながら、それでもなお、いやむしろそうであるからこそ、比類のない「この生」を愛するという態度である。

 それが最も直截に現れているのが標題作「なめらかな世界と、その敵」である。無数の並行世界を知覚し、それらの並行世界の間で意識を自由に移動させる「乗覚」という特殊な能力をそなえた別の人類が暮らす世界。事故で乗覚に障害を負い、この並行世界で一生を終えることを余儀なくされた幼馴染と再会した主人公は、幼馴染をめぐるとある事件を契機に、自分もまた乗覚を捨ててこの並行世界で幼馴染と一緒に生きる決意をする。どんな人間にもなれる、どんな世界にも行けるという無限の可能性を自ら捨て去るという少女の危うい決断は、人が進路や恋人を選択するときの決断にも少し似ていて、その危うさも含めて美しく、愛おしい。

 シチュエーションは全く異なるが、同じような構図は「美亜羽へ贈る拳銃」にも見られる。脳へのインプラントによって感情や思想を自由にコントロールすることができるようになった近未来で、美亜羽という少女を中心とする愛憎入り混じった人間模様を描く本作では、終盤に主人公がとある事情でインプラントの干渉を受け付けない体質であることが明かされる。感情を自由に操作してどんな自分にもなることができるという可能性は否定され、主人公はままならない自分の感情と生身で向き合うことを迫られる。

 のぞみ123号の窓、乗覚をもった人間の眼、インプラントというテクノロジーは、いずれもどんな自分にもなれる、どんな世界にも行けるというオムニポテントな状況を現実的あるいは想像的に登場人物たちの前に現出させるための舞台装置である。このような状況の中で、伴名練の作品の登場人物たちは、ときに別の自分、別の世界という可能性に安易に飛びついてしまいそうになりながらも、最終的にはこの自分、この世界を断固として引き受ける決意をする。しかし、「ひかりより速く、ゆるやかに」が示していたように、このような結末は、無限の可能性を人間の前に開示するSF的想像力の意義を単純に否定するものではない。むしろ、SF的想像力が別の自分、別の世界の可能性に登場人物たちを直面させるからこそ、登場人物たちはこの自分、この世界の比類なさを自覚し、それを愛することができるようになるのである。ある意味で、これほど力強いSF賛歌があるだろうか。「世界で最もSFを愛した作家」は、「SFを愛する」ことにどのような意味があるのかという問いに、作品そのものによって答えているのだ。

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵